「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」の感想、及び考察

*以降の内容はネタバレを含むので注意されたし。私はそこまでエヴァに詳しくないので矛盾や勘違いがあるかもしれない。

  • 2021/03/10 初稿

 

はじめに

2021年3月8日、新劇場版ヱヴァンゲリオンの完結編「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」が公開された。公開前より「さよなら、エヴァンゲリオン」、「最後のエヴァンゲリオン」などと言うキャッチコピーから、TV版から続くエヴァシリーズが本当に完結するのではないかとファンの間で話題になっていた。

私としては庵野監督のことだから終わらないだろうと思いながらも、8時20分の回を見るべく劇場に向かった。

 

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映画の感想、及び考察に移る前に、簡単に自分がどのエヴァを履修しているか紹介する*1*2

 ちなみに、最も好きなキャラクターは綾波レイだが彼女がヒロインになることはないと考えているため、ヒロインは惣流・アスカ・ラングレー*4だと思っている*5

 

感想

見ていないと何を言っているのかわからないと思う。まだ1回しか見ていないのであらすじは記していない。

序盤の感想(ピチャァするくらいまで)

タイトルがヱヴァ〜からエヴァ〜に戻るに伴い、シンジの性格も「破」で見られたようなアニメの主人公らしい性格から旧作のような性格に戻っていた。相変わらずシンジにはイライラさせられた。だがシンジの立場になって考えてみると、命懸けで救おうとした綾波がいなくなり、14才という多感な時期に目の前で友人の首をはねられたりしたらメンタルはやられるだろうし、久しぶりに会った友人が見た目も中身も大人になっていたら戸惑うのもしょうがないだろう。本作中では唯一シンジだけが見た目も中身も14才のままである。ピチャァするまでシンジに動きはほぼないので他の登場人物の話に移る。

 

序盤はニアサードインパクトから生き残った人たちが生活する村が舞台である。この村の話だけで1時間近く時間を使っており、「本当にちゃんと終わるのか?」「TV版みたいなとんでもendになるんじゃないか?」と見ていてハラハラした。

その村にはケンスケ、トウジ、ヒカリが暮らしていた。トウジとヒカリは結婚し子供もいて、予想通りながら嬉しかった。何気にこの2人が結ばれる描写があるのは初めて見たように思う。みんな見た目からは一瞬誰かわからず、声を聞いてよく見ると誰かわかるといった様子であった。特にケンスケに関しては加持さんかと思ってしまった。

綾波レイ(仮称)*6の話をする前に、オタクがメンタルをやられだす部分の話をする。綾波がトウジ・ヒカリ家に滞在する一方で、シンジはケンスケ宅に滞在する。このケンスケ宅なのだが、なぜかアスカがいる。家でケンスケに上裸を見られても平然としており、ケンスケを「ケンケン」と呼んでいる。ケンスケの風貌が加持さんに似ていることも合間って、オタクは内心ざわついていた。こんな状況で、アスカからシンジに対し「先に大人になちゃった。」という発言があり、オタクは匙を投げた*7。別にアスカを推しているわけではないが、直前にANIMAを読んでしまっていたのでメンタルへのダメージが半端なかった。

ケンスケとアスカの関係性については解釈不一致であったが、ケンスケ、トウジ、ヒカリは頼れる大人に成長してした。正直、エヴァシリーズに出てくる大人の中で最も大人らしい大人のように感じた*8。ニアサードインパクトを生き残るために大人になるしかなかったらしいが、それだとセカンドインパクトから生き延びたミサトさんがあまりに残念ということになってしまうんじゃないかとも思った。

途中で加持さんとミサトさんの子供が出てくる。加持さん自身はサードインパクトを止めるために死んだらしいが詳しい描写はなかった。その子供の名前がリョウジ*9なあたりにミサトさんの残念な部分が溢れている。Q以降は厳しい人という印象が強いが根本の残念さは健在しているようである。

序盤において、最大の癒しは綾波であった。綾波は村民たちとの共同生活を通して「人間味」を獲得していく。これまでのように「命令に従うために生きる」のではなく、「日々を生きるために生きる」ことで綾波は「自分は何者か」考えるようになる。この過程の綾波は本当に最高だった。アスカの件もあって、まさかの綾波ヒロインルートに突入してるのかと思って感極まっていた。シンジも綾波との交流を通して立ち直っていく。しかしながら、流石の庵野監督、話をこのまま流したりはしない。人造人間たる綾波はNERVでの調整なしでは生きられない。シンジに対し、好意を伝え、もっと生きたいと言いながらLCLになる様に思わず涙ぐんだ。

消える綾波を目にしたシンジは再び立ち上がり、ゲンドウを止めることを決意する。結局シンジは綾波のことをどう思っていたんだろうか?ゲンドウと戦うことを決意したときの原動力は怒りだったんだろうか、それとも悲しみや他の感情だったんだろうか。いつものことだが、不貞腐れている時以外のシンジの感情はわかりにくい。

中盤の感想(シンジがゲンドウとの戦いに出るくらいまで)

中盤から終盤にかけては専門用語のオンパレードな上によくわからない部分が多いので、「うわ〜、すご〜い」くらいの感想しかない。どちらかというと、どういうことなんだろうと考察が捗る部分である。

 

中盤ではマリとアスカがゲンドウらを止めるためにエヴァで戦う。この2人でATフィールドを展開するシーンはプリキュア感があって非常によかった。映像媒体においてはアスカに同性の友人がいる描写はなかったように思う*10ので、言葉ではなんやかんや言いつつもアスカに同性の友人がいるという描写は見ていて嬉しくなった*11

13号機を封印しようとするアスカであったが、別のアスカによって13号機に取り込まれてしまう。アスカを使ってフォースインパクトを起こそうということらしい。さらに、13号機とゲンドウによって初号機が奪われてしまう。この時のゲンドウがちゃんと人間をやめていて最高だった。

フォースインパクトを止めに行こうとするシンジに対して銃を突きつけるピンク髪とトウジ妹が唐突すぎて要らなかった。ピンク髪がするはずだった役割をトウジ妹が果たしてしまっているので、ピンク髪の物語上の必要性がなかったように思う。どうして登場したんだピンク髪は。

シンジを送り出すミサトさんは「破」のラストと相似していた。結局のところ、物語を通してシンジの成長を期待し応援していたのはミサトさんだったように思う。「Q」でシンジに冷たく接していたのも愛情の裏返しだったようだ(本当に?)。

終盤の感想(ラストまで)

とんでもendを迎えるんじゃないかとヒヤヒヤしながら終盤は見ていた。もっともヒヤヒヤしたのは、特撮撮影現場のような描写が出た時である。某ドラクエ映画*12のようなラストがくるんじゃないかと冷や汗を書いていた。庵野監督ならやってもおかしくないというのが不安をさらに煽る。

TV版、旧劇場版、ANIMA、貞本版を彷彿とさせるシーンが多々あり、本作が集大成であることをひしひしと感じたが、世界を作り直すendになってしまったのが非常に残念だった。TV版、旧劇場版、ANIMA、貞本版の全てと異なるendにするのは難しいかもしれないが、本作に関しては貞本版と同じような終わり方にするのは禁じ手だ。本作中において、シンジが「破」・「Q」でしてしまったことと向き合い立ち直っていくという描写や父ゲンドウとの対話を経て成長するという描写が一気に空虚なものになってしまった。世界が再構築されることにより、シンジの成長の基盤が失われてしまったことになる*13。困難を乗り越え同じ世界で生きていくという描写*14をしなければ、シンジの成長の物語として成り立たないのではないだろうか*15。最後の描写的にシンジとマリは新世界でも記憶を保持していそうだが、覚えていれば良いというものでもないだろう。蛇足だが、ミサトさんが自らの命を犠牲にしてまで願った息子の生存は、これで果たされたと言えるんだろうか。

考察

ここまで長々書いてきたが、本編の考察はこれからである。考察も長々書いていくことになると思う。

 

式波・アスカ・ラングレーとは

新劇場版におけるアスカ周りの大きな変更点といえば下記のものになるだろう。

  1. 名前が「惣流」から「式波」に変わった。
  2. 綾波と同じような人造人間になった。
  3. 2号機に母親が入っているという設定がなくなった。

本作終盤における「渚」の意味の説明から考えるに、1点目と2点目は関連しているだろう。川*16を連想させる「流」から海を連想させる「波」への変更は、「ヒト」から「ヒトならざるもの」への変化を表しているのだろう。式波が人造人間であるということは、綾波にとってのユイのような母体になる存在がいると考えられる。候補としては、「惣流」と「アスカの母親」のいずれかが考えられる。EU支部にゲンドウのような関係者がいれば「アスカの母親」でも良さそうだが、いくらなんでもぶっ飛んでると思うのでこの説は棄却したい。「惣流」と考えるのが無難かと思う。パイロットとして訓練を受けていた惣流が14才になる前に死んでしまい、そのバックアップとしての「式波」が作られたのではないだろうか。そう考えると「惣流はどこに行った?」問題も解決できるように思う*17
3点目については、なんでなくなったのか考察しがいがある。そもそも新劇場版においてエヴァと母親の関係に関する描写自体がなくなっている*18。「惣流」から「式波」になることで、乗り越えるべきものとしての母親を描く必要がなくなったからではないだろうか。なお、2号機に「惣流」の母親が入っているのかいないのかは明らかにされていない。

真希波・マリ・イラストリアスとは

真希波・マリ・イラストラスとは何者だろうか?「真希波・マリ」なる人物は貞本版の最終巻に登場する。貞本版のマリは冬月研究室の一員として出てきており、この描写は本作でも描かれているため、貞本版のマリと本作のマリは同一人物と考えて差し支え無さそうだ。ただ、そう考えるとマリの年齢の辻褄が会わなくなってしまう。エヴァに乗れることを考えると14才であるはずだが、冬月研にいた時にすでに16才であったことから若返っている必要がある。もう1人、マリという人物がANIMAには出てくる。ANIMAにおけるマリは幼女キャラであり、見た目も年齢も貞本版や本作とは異なっている。ただ、本作との類似点もある。ANIMAにおいてマリはUSエヴァビースト/ウルフパックというエヴァに乗っている。このエヴァはその名の通り獣(狼 or 犬)を模したエヴァであり、しかも敵を捕食して自分の一部にするという描写がある。新劇場版を通してマリの乗った2号機が獣になるシーンがいくつかあり、本作においては量産型エヴァを捕食することで自分の力とする描写がある。また、新劇場版においてマリが匂いを嗅ぐ描写があったが、これはウルフパックとの関係を匂わせる描写のように思う。

もう1点、2号機周りでANIMAとの繋がりを感じる描写がある。それは、本作において式波が13号機を封印しようとする際に巨大な獣のような姿になる場面である。これはANIMAにおける、方舟に触れた後の2号機あるいはウルフパックを連想させる。

新劇場版においてANIMAの設定を引きずっていると考えると、2号機にアスカの母親が入っていたとしてもマリが2号機に乗れることも説明できる。ANIMAにおいてウルフパックは2号機を捕食しており、マリとアスカの母親に繋がりができている描写がされているからだ。

時系列について

私はエヴァシリーズは「ループ」あるいは「ループ+多世界解釈」ものだと思っている。割とポピュラーな考え方だと思うが、こう考えているせいで整合性の点から考察が大変になっている。もしかして、それぞれ別作品と考えて整合性とか気にしない方がいいんだろうか*19

最後に

ここまで色々書いてきた。本作の終わり方に関して思うところはあるが、集大成であることが感じられる作品であることは間違いない。見終わった後の、「長かったシリーズがとうとう終わってしまった。」というなんとも言えない寂寥感と満足感があった。

「序」が公開された時、シンジに年齢が近かった。「シン」が公開された今では、ミサトさんや本作のケンスケ、トウジに年齢が近くなってしまった。今も大学で学生をやっていることもあって、「序」公開当時の私が目指していたような大人に私はなれていない。「大人になる」とはどういうことか。どういった時になれるのか。本作及びこの文章を書くことを経て、そういったことを真面目に考えるようになった。

 

*1:スピンオフ系はほとんど未履修である。ちょっとだけ育成計画とピコピコ中学生を読んだくらい。

*2:履修済みのもので最も好きなのはANIMAである。次点でAirが好きだ。

*3:映画を見る直前にこれを読み直しておいて本当によかった。

*4:「惣流」としている点にオタクの悪あがきが詰まっている。

*5:この見解がのちにオタクを苦しめる。

*6:面倒なので以下「綾波」と呼ぶ。

*7:友人との感想戦で「それはそういう意味じゃなくて、精神的成長のことだろう。」と言われたが、敏感なオタクなのでそうは受け取れなかった。オタクにはオタク特有の神経質さがあるのである。

*8:NERV関係の大人が残念すぎるだけかもしれない。

*9:加持さんの名前もリョウジである。

*10:綾波やヒカリとは友人と呼べるほどの関係ではないと思う。

*11:ここまで書いて気づいたんだが、私はもしかしてアスカ推しなんだろうか?

*12:確かこれも公開初日に見に行った。初日に見に行ったせいでラストが最悪だということを知らずに見てしまった。あれは見ない方が良い。

*13:貞本版でのendはあれはあれでいいと思う。貞本版はシンジの成長の物語だとは思っていないので。

*14:私がANIMAを好きすぎるだけかもしれない。

*15:もしかしてシンジの成長の物語ではなかった?

*16:川は陸地にある

*17:式波は惣流とは別人だと自分に言い聞かせることで今回のケンスケとの件はなんとか納得することができた。

*18:初号機には相変わらずユイが入っているが

*19:これまでの考察を全てぶち壊す発言。